AIクリエイターは「クリエイター」ではなく「AIポスター」なのでは?という話

AIの進化によって、私たちの暮らしはますます便利で豊かになっていますね。
作業の効率化、情報検索、レビューやテストの支援、さらには話し相手としての役割まで、AIは私たちの生活のさまざまな場面で頼れる存在になりました。
そして最近では、AIを使ってコンテンツを制作・発信する人が増えています。
いわゆる「AIクリエイター」と呼ばれる人たちです。
私自身の立場としては、私は、自分の手で絵を描き、映像を作り、ゲームや音楽を制作する者です。つまり、自身の手と頭を使って表現を行う「クリエイター」です。と前置きしておきます。
しかし、だからといって、AIを使って創作する「AIクリエイター」を否定するつもりはありません。
AIという「道具」を使って創作するというスタイルも、現代の表現のひとつとして認められるべきだと思っていますが、SNSなどでは、「AIを使ってるのにクリエイターを名乗るな」という批判をよく目にします。
この背景には、「創作活動とは何か」という価値観の違いがあるように思います。
英語的な観点から見た「クリエイター」とはなんなのか。言葉の定義で見てみると、次のような分類が考えられます。
Creator | 自身の技術やスキルを使って、発想を形にする創造者 |
Content Creator | SNSやYouTubeなどで、コンテンツを制作・発信する人全般 |
Poster | 単にコンテンツを投稿するだけの人 |
この分類に照らせば、「AIクリエイター」は、AIを使った出力スキルを持つという点でCreator的側面もあるので、発信行為そのものはContent Creatorに当たるとも言えます。
つまり、「クリエイター」と名乗ることが完全に誤っているわけではないのです。
しかし一方、「AIがすべて作ったものを、ただ出力して投稿しただけ」の場合、そこに「創造者としての”意図”や”表現”としての選択」があるのか疑問に感じる人も多いでしょう。
そうしたケースでは、「Creator」ではなく、むしろ「AI Poster(AIの投稿者)」と呼ぶ方が実態に即しているのではないのか、なんて、そんな感覚が生まれます。
本質的な問題は、「クリエイターを名乗っていること」が反感の対象になっているのではないかと感じます。
それは、長年かけてスキルを磨き、手を動かし、悩みながら作品を生み出してきた人たちにとって、「AIに数行打ち込んで得られたものが“同じ土俵”に置かれている」ことへの違和感や抵抗かもしれません。
AI時代の今、「誰もがコンテンツを作れる時代」が訪れています。
それはとても素晴らしいことですが、同時に「創作とは何か?」という問い直しも求められているのだと思います。
大切なのは、ツールの有無ではなく、そこに“意志”や“選択”があるかどうか。
AIであれ手描きであれ、自分なりの「何かを伝えたい」という想いが込められているなら、それは立派なクリエイションだと私は思います。
デジタルイラストや液晶タブレットがこの世に出現した時の
「デジタルで絵を描くヤツはダメだ」
「ラクしてる」
「味がない」
これらのような論争が当時起こったのですが、この時を非常に思い出す内容だったので、日記に書いてみました。